編集者がレストランを手掛けたら…。東京の大手出版社「KADOKAWA」が、今月、埼玉県所沢市に直営のレストラン「角川食堂」をオープンし、話題を呼んでいる。仕掛け人は、世界的ベストセラー作家、エラリー・クイーンの翻訳本などを手掛けてきた同社の元編集者、津々見潤子さん。「読書など活字文化は人生にとって欠かせない大切なものですが、『食べること』は生きるための根源。もっとこだわってもいいのではないか?」。長年こう考えてきた津々見さんは編集部を飛び出し、食の世界という未知の分野で挑戦中だ。無農薬野菜を採り入れた日替わり定食や、出版人もうなるオリジナルブレンドのコーヒーなど編集者の感性から繰り出す究極のメニューとは…。
今年11月、KADOKAWAが運営するイベントホールやミュージアム、図書館、商業施設にホテルなども備えた大型複合施設「ところざわサクラタウン」が、グランドオープンする。
新型コロナウイルスによる自粛などで開業予定がずれ込んでいるが、今月始め、KADOKAWAのオフィスフロアやミュージアムなど施設の一部がプレオープンした。これに合わせ、津々見さんたちが準備を進めてきた角川食堂も営業をスタート。元編集者がこだわりぬいて完成させた究極のメニューが、遂にそのベールを脱いだ。
「レストランを作れ!」
角川食堂には、普通のレストランのような決まったグランドメニューはない。
お勧めの料理を聞くと、津々見さんは笑顔で、こう説明し始めた。
「その日朝、地元などで収穫した新鮮な食材の種類によって、毎日おかずのメニューが変わる日替わり定食がお勧めです。それに、カレー好きの社員にアイデアを募って完成させたスパイスカレー。食後は、コーヒーにうるさい編集者たちをもうならせた焙煎からこだわり抜いたブレンドコーヒーも、ぜひ味わってみてください」
食堂運営が軌道に乗るかどうかが不安だと言いながらも、オープンに向けてメニューの企画、研究を進めてきた津々見さんの表情は自信に満ちていた。
元編集者の津々見さんの現在の社内での肩書は、レクリエーション事業局フードビジネス課長。
津々見さんは1971年、佐賀県生まれ。東京外国語大学卒業後、都内の出版社などを経て、2002年にKADOKAWAへ入社した。書籍編集部に配属され文芸担当の編集者としてエラリー・クイーンの新訳シリーズなどの編集を担当してきたが、20016年、突然、上司に呼び出され、こう伝えられた。
「あなたは給料の半分以上を食費にかけるほどの“食通”と聞いているが本当か? 実は社内で計画中の、あるプロジェクトをやってほしいのだが…」
社内でも極秘だったプロジェクトとは、デンマークにある世界最高峰のレストラン「ノーマ(NOMA)」のような店を、日本で出店できないか、という計画だった。もちろん、レストラン経営はKADOKAWAにとって初めてのプロジェクトだった。
「私が食にこだわってきたのは事実です。給料の半分以上を食費に使ってきたことも」。津々見さんはこう認めたうえで、その理由について続けた。
「編集者として新しい作品を作家と一緒に考える際、“食”はとても重要なテーマでした。楽しく食べることによっていろいろなアイデアが生まれるんです。そのための知識を身につけるため、美味しい料理を出すというお店を毎日、探していました」
こうした努力によって習得し、津々見さんが作家に教えた“食の情報”から生まれた新刊は少なくないという。
津々見さんは編集者の仕事と並行しながら、デンマークへ何度も出張し、レストラン出店計画を練っていく。そして2018年6月、ノーマのノウハウを生かした、KADOKAWAが運営する初のレストラン「イヌア(INUA)」が東京にオープンした。
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6万円のフルコースの価値を
ノーマのスタッフを日本に呼び、レストラン開業に導いた津々見さんの手腕に、新たな“食のプロジェクト”が託される。
それが角川食堂だった。当初、角川食堂は社員食堂として計画されていた。
「イヌアのフルコース料理は1人約6万円。プロのシェフがこだわりぬいた食材を使った最高の料理なので、この値段はそれにふさわしいのですが、毎日食べるのはとても無理ですね。それなら、イヌア並みのクオリティを維持しながら毎日食べられる値段で、美味しい料理を提供することはできないだろうか…」
津々見さんは、これを「角川食堂」で実現し、さらに、社員だけでなく一般の人にも食べてもらいたい、と構想を膨らませていく。
KADOKAWAは、障害を持つ社員たちが働く自社農場「かどふぁ〜む」を千葉に、また、創作活動をサポートする「ものづくり事業」に取り組む子会社「角川クラフト」を東京本社内で運営している。
津々見さんは、この社内資源を角川食堂の運営に生かせないか、と考えた。
「かどふぁ〜むで栽培される無農薬の有機野菜は、これまで社員へ配られていたのですが、それだけではもったいない、と思っていました。例えば、その日獲れたばかりのバジルやミントなどのハーブを角川食堂のメニューの中で生かせたら…と」
また、美味しいコーヒーを角川食堂のメニューに入れたい、と考えていた津々見さんは「角川クラフト」にこの仕事を依頼。本格的なコーヒー豆の焙煎機を導入し、プロの焙煎士に協力してもらいながら、最も美味しいコーヒーを淹れるための独自の焙煎方法を研究していったという。
「出版社ですから、コーヒーの味や香りに一家言持つ編集者は多い。みんなのうるさい意見を聞きながら、焙煎やブレンド方法を練っていきました」と津々見さんは苦笑する。
さらに、カレーのメニューも考案。
「カレー好きの社員に集合をかけ、レシピを開発するために“角川カレー部”を創設したのですが、各部署から70人以上も集まったんですよ。やはりここでもみんなうるさくて、いろいろなアイデアを集約しながら“究極のスパイスカレー”を完成させました」
味だけでなく健康にも配慮し、手間暇をかけながら作り上げた「日替わり定食」の値段は1000円(税込み)〜。角川食堂カレーは900円(税込み)〜。角川コーヒーは一杯400円(税込み)〜。
また、出版社ならではの特別メニューとして、同社が発行する月間の料理雑誌「レタスクラブ」で掲載されるレシピの料理もメニューとして登場するという。
津々見さんのこんな並々ならぬ「食」への情熱に共鳴するスタッフが次々と集結。東京の在日デンマーク大使館で勤務していた料理人も、角川食堂のオープンのために転職してきたという。
「イヌアの6万円のフルコースにも負けない料理を食べてもらう…。そう願いを込めて自信の料理を提供していきたいと考えています」
編集者からフードビジネスのスペシャリストへ…。津々見さんの挑戦に今後も要注目だ。
波溝康三(なみみぞ・こうぞう)
ライター
大阪府堺市出身。大学卒業後、日本IBMを経て新聞記者に。専門分野は映画、放送、文芸、漫画、アニメなどメディア全般。2018年からフリーランスの記者として複数メディアに記事を寄稿している。
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